横浜駅西口再開発
LIFESTYLE |2018.11.25

半世紀以上、
寄り添いながら
続けてきたまちづくり

長らく空き地が続いてきた横浜駅西口周辺は、戦後突然「まち」への進化をはじめます。
その誕生から60年以上、松田平田設計は節目節目で開発に携わり、その成長をサポートしてきました。
まちは生き物。そのまちに長く寄り添うことで、見えてくるものがあります。

西口が「まち」へと生まれ変わる。

横浜駅西口は、戦後空き地を相模鉄道が買い取ったところからはじまりました。1956年4月、相模鉄道は横浜駅西口の南側線路沿いに「横浜駅名品街」を開店。57店舗がテナントとして営業を始めました。同時に名品街の西隣には、「高島屋ストア(現横浜高島屋)」が開店。当時はまだストア経営でした。この2つの駅に隣接した商業施設がまちの顔になり、空き地が都市へと一気に変貌を遂げました。どちらも松田平田による設計で、これが横浜駅西口との半世紀以上に渡るご縁の始まりです。1959年、相鉄会館完成、そのテナントとして「横浜髙島屋」が百貨店として開業します。売り場面積11,000平方メートル。地下2階、地上8階の横浜の新名所になりました。

横浜駅西口の誕生と成長

駅と地下を商業地にする新発想。

いまやあたりまえに存在する駅ビルや地下街は、この頃日本に初めて誕生しました。そのうちのひとつを松田平田設計がデザインしました。横浜駅西口の「ダイヤモンド地下街」です。1964年、横浜地下街株式会社(7社で設立)によって建設されました。1960年代、建築は超高層化の開発が始まりましたが、地下の挑戦も始まりました。いままでは、単なる通路、インフラとしてしかなかった地下を、商業地に変えていったのです。
また、交通の結節点でしかなかった駅を、商業ビル化する動きもこの時代に始まりました。横浜駅はその先駆例です。1962年、横浜ステーションビルが運営する「横浜CIAL」が横浜駅の駅ビルとして誕生しました。
そして西口は西口広場を中心として駅前開発が進められてゆきますが、1965年、松田平田設計はその一角に「相鉄本社ビル」を設計しました。相鉄の本社ですが、銀行や航空会社などのテナントが入る賃貸オフィスとして計画され、地下1階では地下街とつながる飲食店も入居していました。その3年後、1968年には相鉄本社ビルに対面する一角に建つ「横浜銀行横浜駅前支店」のデザインも松田平田設計は手がけています。

ダイヤモンド地下街、1960年代
1代目ダイヤモンド地下街入口、1960年代
ダイヤモンド地下街とともに建設された横浜駅西口地下駐車場、1960年代
2代目ダイヤモンド地下街入口
相鉄本社ビル、1965年
相鉄本社ビル(右)と横浜高島屋(左)
横浜銀行横浜駅前支店、1968年

駅ビルの高層化と成長。

時代は高度経済成長期。駅ビルを増築・高層化することで、それにつられるように横浜駅西口周辺の商業的集積度が一気に高まりました。松田平田設計は、横浜CIALの南側に、かつての横浜駅名品街を飲み込むかたちでもうひとつの駅ビル「新相鉄ビル」を1971年に設計しました。ほぼ同時期に横浜高島屋も改築。相鉄ビルと連続した「相鉄ジョイナス・横浜高島屋」の低層部(地下2階~5階)も1973年に松田平田設計が設計。この相鉄ジョイナスは5年後6階~屋上階まで増築し、校倉造りを模した外観や小さな動物園も備えた屋上庭園が話題となりました。こうして松田平田設計は駅隣接商業圏の急成長を支えてきました。

横浜高島屋
相鉄ジョイナス模型
1960年代の横浜駅西口
1960年代の横浜駅西口
1960年代の横浜駅西口

人の流れが変わる、生きた「まち」の進化

駅前が観光と国際化を担う。

1990年代、みなとみらい地区ではMM21プロジェクトの建物が次々竣工してゆきます。93年に横浜ランドマークタワー、97年にクイーンズスクエア横浜、パンパシフィックホテル横浜など、新しいまちなみが姿を現しました。21世紀の業務、住宅、商業、観光の産業を港湾地区に興そうというものです。その観光国際化を横浜駅エリアでも果たすべく、1998年に松田平田設計がデザインしたのが「横浜ベイシェラトンホテル&タワーズ」でした。西口広場に面した相鉄本社ビルを取り壊し、跡地に建てたもので、隣接している「横浜ファーストビル」と合わせてひとつの街区まるごとを設計しました。この街区は特定街区が適用され、土地の高度利用を図った超高層ホテル(ベイシェラトン)、業務ビルによる複合施設、周辺道路の拡張、第2バスターミナル整備、ペデストリアンデッキの設置、既存地下街との接続、公開空地の設置、地域冷暖房施設の設置が行われました。
実はこのときに課題になったのは駐車スペース不足。64年につくられた地下街は地下2階のワンフロアが駐車場でしたが、それでは足りません。松田平田設計はその下、地下3階、4階に駐車場を増築するという全国でも初めての試みに設計者として携わります。(「横浜駅西口地下駐車場増築」)。しかも工事中も駐車営業が続けられる方法を模索。地下2階の下に打っていた杭を柱として使いながら、仮受杭を先行して建物全体を支えながら施工する方法で実現しました。

西口特定街区へのペデストリアンデッキ
横浜ベイシェラトンホテル&タワーズ
2000年代の横浜駅西口

新しい横浜駅西口。

横浜駅西口の姿はまた大きく変わりつつあります。東急線が地下化され、駅ビルであった横浜エクセルホテル東急と横浜CIALを閉店して、新しい横浜駅西口駅ビルの建設が始まりました。相鉄が南方向に開発を進めていたのに対し、今度は北方向へ開発の手が延びます。この西口駅ビルの計画の大きな骨子のひとつに、90年代の考え方とは打って変わって、クルマを極力街区の中に入れないというコンセプトがあります。そこで駅北側の鉄道用地に大きな駐車棟を建てるのですが、川を渡らねばなりません。そのため東横線の架線を利用した大きなウォーキングデッキが設けられることになりました。西口駅前の人の流れを、大きく北へ振り向けるインフラが生まれるのです。これを機に、駅からの距離の割には人の流れをつくれなかった対岸の鶴屋町で、住宅、ホテル、商業施設が入る高層複合ビルを建設する再開発事業が始まりました。「横浜駅きた西口鶴屋地区第一種市街地再開発事業」です。ここに松田平田は基本設計JVとして参画。西口の人の回遊ルートを今大きく変えようとしています。
またこれまで東西自由通路から、地下街へのアプローチはいったん地上に出なければなりませんでしたが、そのアップダウンなしでスムースな接続が可能になりました。地下街への入口を含め、西口広場全体の再整備を松田平田設計が進めています。
横浜駅西口は松田平田設計にとって特別なまちです。空き地をまちに変えた横浜名品街が生まれてから60年以上。節目節目のプロジェクトを支えながら、まちの進化を見守ってきました。目には見えないまちの構造――インフラのようなハードから、土地利用制度のようなソフトまで――を熟知したホームタウンとも言えるまちです。

横浜駅西口周辺

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